【心の話】その行動、無意識の「思い込み」が原因かも?
さてさて今日は
「思い込み」のお話。
長文です。
どこか端的にまとめようとしましたが
長文になりました( ̄∇ ̄)
お付き合いいただければ嬉しいです。
ヨガでは、真実の目で見ましょう、という教えがあります。
ヨガの経典「パタンジャリのヨーガ・スートラ」にはこのような例えが出て行きます。
草むらで動く細いものを見た。それを蛇だと思い恐れた。
しかし、近くに行って確かめてみるとロープだった、
というものです。
これは、ただの勘違い、という笑い話ではないのですよ( ̄∇ ̄)
私たちは、物だけでなく、起こった出来事も思い込みで物事を解釈している、
ということの例えです。
私たちは、物事や出来事をありのままに見ているようで、実は**「思い込みのフィルター」**を通して見ています。過去の経験が作り出した色眼鏡で世界を見て、本当はヘビではないものをヘビだと思い込み、勝手に恐れを抱いてしまう…。
ヨガでは、この「思い込み」を手放して、物事をありのままに、
「今」を見る練習をしています。
ここにこの話を書いたのは、この前、心理学の講座に参加して、
そこで学んだことが、このヨガの教えに似ているな、、と思ったことからです。
私自身、「なるほどな~!」と思ったので
シェアさせていただきます。
その講座に出てきたのは、「愛」そのものであるはずが
『「〇〇」と「愛」』でセットになっちゃっているというお話。
例えば
「嘘」 と 「愛」
「我慢」 と 「愛」
「暴力」 と 「愛」
「自己犠牲」 と 「愛」
「え?どういうこと?」と思いますよね。
これは特に、子どもの頃の親との関係が大きく影響しているそうです。
例えば、
・親に嘘を付かれていた(真実を隠されていた)が、それが優しさゆえのことだった。
・親が暴力的だった。
・いつも家で一人で親の帰りを待っていた。寂しいとは言えなかったけど、それが当たり前の日常だった。
・親の「私はいいから」を見て育ってきた。
このように、本来ならネガティブなはずの「〇〇」という状況や行為が
〇〇されることで愛された。〇〇だったがその出来事が愛情を注いでくれた人とのつながりだった、という場合です。
(この経験がある人がみんな「〇〇と愛」を一緒にしているとは限りません)
親からの「愛」が結びついてしまう。
すると、心の中に**「〇〇 = 愛」**という無意識の方程式が出来上がってしまうというもの。
それが、大人になってからも、親以外の人との関係でも当てはめてしまうというもの。
例えば
・騙されやすい。
(嘘と愛情がセットになっている)
・いつも頑張りすぎてしまう。
(頑張らないと愛されない、と思っている)
・なぜか厳しい環境ばかり、自分で選んでしまう。
(厳しい状況こそ、愛のある場所だと思い込んでいる)
・選ばれないと分かっていても、ある人をずっと待っている。
(待つことが愛の形だと信じている)
この(カッコ)の中のことは無意識だったりします。
周りから見たら、「そんなのやめたら?」「しんどいなら離れたら?」と
思うようなことを、本人は無意識に選んでいます。
なぜなら、本人の中ではそれが「愛」と強く結びついているから。
子どもの頃は、その方法でなんとか親との関係を保ち
生き抜いてきた成功体験だからというお話でした。
特に**「自己犠牲と愛」**という組み合わせは、日本人には多いかもしれませんね。
私自身もカウンセラーさんに教わったのが
「2つケーキがあったとして。子どもが二人、お母さんがそこにいて、
その時、『あなたたち食べなさい。お母さんはいいから』ではなくて、
3人で一緒に食べる方法を考えるのよ」とおっしゃていたこと。
また、
「自分も数に入れること。そういうところを見せてあげるのも大事。」
という言葉を思い出しました。
もしかしたら子どものころに
「本当はお母さんと一緒に、おいしいねって言いたかった」
と封じこめていた思い。
そこを解放して
「本当は」の部分を感じる。
「本当は」したかったことを大人になった自分が実践する。
これは、自分と似たような環境の人が集まっていたり
人との違いが感じられないようなところにいると
全く気づかない。逆に否定されることもある。
それが、普通だと思い込んでいるから。
誰かと出会い、自分の思い込みに気づく。が、
考えグセを抜け出す方法となるようです。
もし
**「望んでないのに毎回同じパターンで上手くいかず終わってしまう」**
**「本当はイヤだけど、なぜかやめられないこと」**があったとしたら…。
もしかしたら、そこに「〇〇と愛」がくっついた、
自分だけの解釈が隠れているかもしれませんね。
ヨガやピラティスで自分の心と体を静かに見つめる時間も、
そんな大切な「本当の気持ち」に気づく、
素晴らしいきっかけになりますよ♪
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